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田中角栄「怒涛の戦後史」(3)小佐野賢治(中)

2019/6/10 06:00 週刊実話

 田中角栄が明晰な頭脳を駆使、24歳にして年間施工実績で全国50位内にランクされる押しも押されもせぬ「田中土建工業」社長として成功を見たのに対し、一方の小佐野賢治はある意味、田中以上の商才を発揮していた。「戦後最大の錬金術師」と異名を取ったのが、それを明らかにしている。

 無資本、徒手空拳でのし上がった小佐野は、どんなボロ会社を買収しても、必ずその後、優良会社に生まれ変わらせる天才であった。また、戦後の日本経済は、あらゆる意味でアメリカ経済に依存していたが、そこに上手に首を突っ込み、ボロ儲けする才は卓越していたのだった。この点では、商才にたけていた田中も、さすがに小佐野には及ばなかったのである。

 小佐野はやがて、航空会社の買収で、日航、全日空、東亜国内航空(当時)の各個人大株主として航空業界をにらみ、一方で、さらに買収、投資を繰り返す中で、日本国内はもとより米本土、ハワイにも多くのホテルを所有した。昭和60(1985)年6月には名門中の名門「帝国ホテル」の会長にも就任し、名実ともに“世界のホテル王”の地位を固めたものだった。

 危ない橋も渡ったが、昭和61年10月27日に逝去した時点で、個人の総資産はじつに10兆円。生前の小佐野は「(資産を)計算したってしょうがない。大体、計算できないね。1日1000万円使ったとして、一生かかっても使いきれないだろうな」と語っていた。資産が多すぎて、自分でもハッキリとその全容がつかめない。それくらいのカネを残した人物だった。

 その小佐野と田中、商才と商才が手を握っての「二人三脚」の疑惑は、田中がやがて首相となり、ロッキード事件で改めて両者の名前が出るまでの間に、少なくとも以下、三つの事件が取り沙汰されている。

 振り返ってみると、その「刎頸の友」ぶりがうかがえる。田中が大蔵大臣(当時)として力をつける中で、顕在化した話である。

●虎の門事件
 昭和38年、国有地であった虎の門公園跡地1100坪(当時の時価で約30億円と言われた)が、小佐野の所有するニュー・エンパイヤー・モーター社に11億円で払い下げられた。小佐野は払い下げからわずか8カ月後、朝日土地にこれを転売、20数億円の巨利を得たとメディアで報じられた。これは、のちの昭和43年に「黒い霧事件」として国会で追及され、小佐野はそれまでの「怪物」に加えて、「政商」の名も頂戴することになった。

●日本電建買収事件
 先の虎の門事件の“お返し”が、田中の会社であった日本電建の買収ではなかったのかと取り沙汰された。日本電建は、家、建物の月賦販売会社として昭和25年に設立され、のちの昭和36年6月に田中が社長に就任している。この田中の社長就任と同時に、営業目的として、土地、建物の売買が付け加えられている。
 しかし、その後の昭和39年、日本電建は労働組合争議の余波も手伝って経営不振に陥った。この田中の窮地を救うため、小佐野が登場したのではないかという疑惑で、なんと、小佐野は額面50円の株を時価160円に評価、18億円で日本電建を買収したのだった。「目から鼻に抜ける商売人の小佐野にしては、“おかしな買い物”ではないか」と虎の門事件と絡めて、二人の関係が改めて取り沙汰されたということだった。

●外国為替認可問題
 日本人の海外不動産取得のための外貨送金が、一般的にはまだ認められていなかった昭和38年7月、小佐野はハワイ・ホノルルのプリンセス・カイウラニ・ホテルなどを買収した。
 小佐野は海外市場での外貨調達に努めたもののそれだけでは間に合わず、外国為替審議会へその認可を申請していた。認可はなかなか下りなかったが、買収契約の期限切れ寸前に認可されたのであった。田中大蔵大臣の「鶴の一声」で認可されたのではと、もっぱらだったのだった。

★「小佐野を切ってほしい」

 こうした田中と小佐野の黒いウワサが続く中、密かに心を痛めていたのが佐藤栄作だった。

 佐藤は政権を取ると、自らの派閥・佐藤派の中で田中を幹部として上手に使った。同時に、都合7年8カ月の長期政権中、田中を大蔵大臣、自民党幹事長として処遇し、実力者としての階段をのぼらせていた。佐藤のこうした処遇は、一方で佐藤派の“台所”を田中が一人で賄っていたことでもあった。しかし、田中はカネを集めて派閥を支えてくれるのはいいが、その陰でどうも黒いウワサが付いて回る。これに、佐藤は次のような思いを抱いていたと、当時の佐藤派担当記者の解説が残っている。

 「佐藤は田中が小佐野と仲が良く、その小佐野が児玉誉士夫と交流を持っていたことを危惧していた。大きなつまずきを起こさねばいいが、と見ていたということです。ために、自らの退陣後の『角福戦争』で、首相候補として田中より福田に傾いていたのは、田中のカネにまつわるリスクを嗅ぎとっていたという見方もあった。すでに田中の“危うさ”を見ていたということである」

 田中が総裁選に立つことを決めた頃、側近から「小佐野との仲を切ってほしい。カネで足をすくわれることになりかねない」との、強い懇請があったという。

 なぜなら、メディアの社会部記者たちの間では、仮に田中が首相の座に就いても「カネでつまずく可能性がある」ことから、早くも“三日天下説”が駆け巡っていたからだった。
(文中敬称略/この項つづく)

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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