「レモンサワーと酢の物」《新井見枝香コラム・本能めし5》

2019/5/26 19:00 日刊大衆

 まだカーテンのない新居の窓辺は、夜店の射的場のようだ。レモンサワーの空き缶が並んでいる。レモン果汁がより多いものを求めるのは、疲れているときに多い傾向だ。とっとと資源ゴミに出してしまいたいが、洗って潰して乾かして、3分歩く所定の場所まで運ぶ気力が湧かない。こうして人は、ゴミ屋敷の住人となっていくのだな。

 働く環境が変わった疲れで、明らかに酒量が増えた。帰宅後はもう、ヘッドホンで90年代のビジュアル系を聴きながら適度に頭を振って酩酊したのち、ロフトへ上がる梯子に膝をぶつけて、呻きとともに布団へ倒れ込むだけである。この1週間、全く同じパターン。ダメすぎる。

 2年半前からひとり暮らしを始め、ほぼ毎日、自分のためだけに料理をしてきた。好きこそ物の上手なれ。料理の腕はみるみる上達し、キッチン用品や調味料は、とてもひとり暮らしとは思えない充実ぶりだ。今回の引っ越し準備でいちばん大変だったのが、増えすぎたスパイスの瓶をひとつひとつ新聞紙で包み、段ボールに詰めたことだったほどである。

 その私が、料理をする気力をなくしている。知識がなくてお客さんにがっかりされることにも、教わったことを一晩寝たらきれいさっぱり忘れていることにも、予想以上のダメージを受けているのだった。あたしゃアンタが情けないよ。

 しかし、役立たずでも、仕事をすれば腹は減る。閉店間際のスーパーで半額になった弁当は、手っ取り早くて魅力的だ。しかし、私には味が濃すぎた。だが野菜を適当に炒めるにも、キッチンが狭くてやる気が起きない。シンク横スペースはコンロのサイズきっかりしかないため、野菜を切ろうと思ったら、床に正座をして、階下の住人に迷惑をかけないよう台ぶきんを重ね敷きし、そうっと包丁を下ろす必要があった。それでも床は汚れるので、もう二度とやるか、とうんざりしてしまう。

 新築で内覧ができなかったが、物件案内には、確かに「ミニキッチン付き」と書いてあった。だが、シンクにフライパンが入らないほどとは思わなかった。ギトギトのこれを、風呂場で洗えというのだろうか。私は「ミニ」を「コンパクト」くらいに甘く見ていた。牛丼屋でミニ牛丼を頼んだら、おちょこサイズの牛丼で、ミニってそういうことか、さすがにこれ一杯で店を出るやついねぇだろう、と悲しくなるレベルのミニっぷりだ。

 そういうわけで、酒のつまみは、包丁を使わないものを作るようになった。

 鶏皮を小鍋で茹でて水に取り、キッチンばさみで細長く切る。スライサーでキュウリを細長く切って、酢醤油と生姜なんかで和えて、あれば「岩下の新生姜」も散らして、鶏皮の酢の物が完成。引っ越してからこっち、鶏皮だけでウエディングドレスが作れそうなほど食べている。私が越してきてからというもの、急に鶏皮の売れ行きがよくなったと、スーパーの精肉部でも話題になっているかもしれない。何かのテレビで疲労に効くと紹介されたのか、と。

 鶏皮が効くかは知らないが、疲れているときは、本能がすっぱいものを求める。

 それゆえ昼休憩には、職場近くの寿司屋でにぎり寿司ばかり食べている。

 新人のくせに。ちっとも仕事ができないくせに。1.5人前も、美味しいにぎり寿司を食べている。

 早く仕事に慣れないと、破産だ。 

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