わたしのしごと 人生ドン詰まり29歳女、歌舞伎町の「漆黒」へ -Story 1-【連載小説】

2016/6/18 21:00 ネタりか自由帳

   by  小野美由紀

 

 人生の大逆転というのは、一体いつになったらやってくるんだろう。

 

 例えば、西洋占星術的に言えば、山羊座の私にとって昨年は12年に1度のスーパーラッキーな「変容と変革の年」になるはずだった。六芒星占星術と四柱推命によれば「幸運の星」の加護を受けて恋愛と結婚の大チャンスが回ってくるはずだったし、数秘術と動物占いの本には「これまでの苦労が報われ社会で飛躍する年」と書かれていた。だから、私は期待に胸を膨らませて、この1年、一体どんなにいいことがあるだろうと待っていたのだ。

 

 しかし、である。

 

 実際に起きたことといえば、転職したばかりの会社がベトナムの不法労働者を大量に雇っていたことがバレて倒産した上に、ルームメイトが椎間板ヘルニアを患って故郷に帰り、マンションのバカ高い家賃をなけなしの貯金で払わなければならなくなった。”つなぎ”のつもりで勤めたデパ地下の惣菜屋では愛想がないと古参のパートにいびられて辞め、その上、実家が大金持ちだと周囲に吹聴していた港区在住のセフレ(そう、あんなの彼氏なんかじゃない。半年に1回しか会えない男なんて)は群馬出身のホストだった。

 

 2016年、29歳の始まりはこれ以上ないってぐらいにどん底からのスタートで、私はひょっとしたら自分にだけは1年が27ヶ月ぐらいあるんじゃないかと思ったりもしたけれど(そうじゃなきゃ、辻褄が合わない)残念ながらそうではなかった。

 おかげで私はこうして残高がほぼゼロの通帳とともに、これまで足を踏み入れたこともないような歌舞伎町の細い路地のドン詰まりで、梅雨の始まりの灰色の空を見上げている。

 

 人生のどん底は、或る日突然やってくるのではない。自分の乗ったハシゴが一段一段外れてゆくように、気がついたら、暗い穴の底から光り輝く地上の世界を見上げているのだ。

 

 今日この場所に来たのは、とあるバーのアルバイトの面接を受けるためだ。

 

「歌舞伎町にある『バー漆黒』のマスターはお人好しで、どんな女の子も絶対に面接で落とさない」 ……ゴールデン街の飲み仲間からそう聞き、私はソッコー電話して面接の約束を取り付けた。

 

 「バー漆黒」は歌舞伎町の最果て、地震が起きたら崩れ落ちそうなオンボロ雑居ビルの中にあった。私は恐る恐るその薄暗い廊下を進む。カビ臭い匂いがあたりに充満し、両側に並ぶドアの向こうからは男とも女とも分からない歌声が突き破らんばかりに響いてくる。毒々しい色のネオンが、食虫花みたいにくねくねと天井から伸びて、それぞれの店の看板を怪しく浮かび上がらせていた。

 

 こんなところで、私、働かなきゃなんないの?

 

 思わず身震いした途端、廊下の隅から飛び出してきたネズミが雨漏りの雫に打たれてチュウと鳴き、走り去って行った。

 

 猥雑な暗がりの中、「バー漆黒」は予想に反し、まるでそこだけが浮かび上がるような美しい佇まいで目の前に現れた。
 濡れたように艶やかな真っ黒のドアに、縦に取り付けられた金色のバーが優美な曲線を描いている。つい、この美しい扉を持つ店は一体どんなだろうと中を覗き込みたくなるような風貌をしていて、私は思わず、ドアを開けた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 中に入ってすぐ、涼やかな男の声がふんわりと胸に届く。
 再び、息を飲む。そこがあまりに外の世界とかけ離れていたからだ。

 

 淡いブルーのライトが、仄かに5畳ほどの狭い空間を照らしている。壁に並んだグラスたちは光を反射して燦然と輝いていた。店内の空気は粒子が一段と細やかになったように清涼で心地がいい。店の真ん中にでんと広がるのは、ドアと同じ、黒く艶やかな漆塗りの一枚板のテーブル。天井のスポットライトを反射して、真珠のような光の玉をいくつも転がしていた。それが貴重なものだってことは、素人の私にも一目で分かった。

 

 カウンターの奥には、バーの制服を着た初老の男性が立っていた。すらりと伸ばされた背筋、一ミリの崩れも感じさせずにビシリと着こなされたベストにネクタイ。彼がどうやらこの店のマスターらしかった。誰しもを受け入れてくれそうな柔和な目元。けど、その上のせり出た額は、この世の果てまで己の美学を貫き通しそうな、頑固さをも感じさせる。

 

「湯川美園さんですね」マスターは私に向かって言った。我欲や力みを削ぎ落とした、無駄のない声。

 私は急に緊張した。

 水商売は初めてだけど、私なら大丈夫とたかを括ってきた。すっぴんは彼氏にも見せたことないけど、メイクすればまあまあ、イケるはず。一応、履歴書に書けるだけの学歴だってある。しかし、本当に大丈夫だろうか?誰でも受かる面接で落とされたら、それこそ立ち直れない……。

 心は不安と希望の間を、心電図みたいに急角度で反復し続ける。

「何かお飲みになりませんか……“スプリング・フィーリング“などはいかがでしょう。うちは初めてのお客様には必ずこれをお出しするのです」

 

 私の緊張を見て取ったのか、マスターはそう言いながら手際よくシェイカーを振りはじめる。
 やがて、一杯のカクテルが目の前に置かれた。

 

「……美味しい」

 

 白くとろみのある液体を一口飲んだ途端、清々しいハーブの風味が喉から鼻腔を駆け抜けて、緊張が一気に解けた。

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 突然、カウンター奥から一人の女が現れた。
 その顔を見て私は思わず吹き出した。
 その女が、あまりにも醜かったからだ。

 

 ホラー漫画の登場人物みたいに、いびつにへしゃげた頭部。髪はハリガネのようにゴワゴワで、一本一本全てが別の方角に向かい曲がりくねっている。巨大なアゴと額に挟まれた顔のパーツは、全てが芋虫みたいに丸々と膨らんで、一秒だってまともに見ていられなかった。

 

 マスターは私の視線に気づいて女を紹介した。
「立花麗華さんです。彼女が月末でうちの店を辞めるので、代わりに新しいアルバイトの方を、募集しているのです」

麗華、とあまりに容姿と不釣り合いな名前で紹介された子は、そう言われてもこちらをちらりとも見ずに、黙々とグラスを磨いている。

 誰でも雇うって噂は、本当だったんだ――。
 ブスで、コミュ障。こんな子でも務まるのだ。自分が落ちるはずがない。私はすっかり気をよくした。

 

「私、これまでいろんな経験を積んだ中で、やっぱり人を喜ばせる仕事がしたいなっていうか、事務とかには向いてなくって。人に笑顔を与えるのが好きなんですよ。学生時代に読者モデルをやってたこともあって……あ、小さな媒体ですけどね」

 私は得意げに、これまでの経歴を話した。

「それで、バーの接客って、コミュニケーション力が磨かれそうじゃないですか。これまでやってきたことともつながるし、将来的にも役に立ちそうだなって。あ、ちなみに、語学留学もしてたんで、英語も喋れます!」

 

 私がこの子より使える人間だってこと、証明しなきゃ。コミュ力があって前向きで、頭の回転も速くて、それで、それで――

 

 ああ、まただ。

 

 すぅ、と頭の後ろっ側が冷えて行くのを、喋りながら感じる。
 こうしてペラペラと話す私を、脳の裏側で見つめるもう一人の私がいる。
 こういうときだけ見栄を張って、いい気になって。自分はすごい、って見せつけて。

 

 本当はこんなこと、話したいわけじゃないのに。

 

 マスターは私の話をにこやかに聞いている。つまらなそうな顔もせず、かといって大げさにリアクションすることもなく。
 それが却って不安になり、喋りながら、私は彼の顔を上目遣いでそうっと見る。

 

 この男は、一体いつ、私の話に飽きた顔をするのだろう。

 

 話し終えた後、マスターはゆっくりと口を開いた。
「お話ししてくださり、ありがとうございました。では、こちらから一つだけ質問をさせていただいて良いでしょうか」

 

 思わず身構える。
 何を聞かれるんだろう?接客経験の有無? 28歳にもなってバイトを転々としている理由? 結婚の予定?

 

 

「あなたにとって、一番大切なものは何ですか?」
 ……フリーターの女に、それ聞く?

 

 本当はわかっているのだ。どうして自分の人生に大逆転が起こらないのかも、どうして仕事が続かないのかも。

 

“自分には何かができる”――ずっと、そう思ってきた。
「美園ちゃんなら大丈夫」そう周囲には言われ続けてきた。親の期待にもちゃんと応えて、そこそこの大学にも入った。合コンでは2番目か3番目にはちやほやされるし、過去に付き合った男たちだって、みんな私のこと、褒めてくれた。

 私ならきっと、いつかすごいことできるはず。

 そう思うからこそこれまで仕事を転々として、生きる場所を探し求めてきた。なのにーーなんでこんなに、生きるのが虚しいんだろう。

 

 この虚しさを埋めてくれるものを、ずっと私は待っていて、でもそれはいつまでたってもやってこないから、私は今、30代を目前にして、こうして途切れた道の上で前にも後ろにも進めず、困って立ち尽くしているのだ。

 

「わかりません」しばらく黙ったのち、私はそう答えるしかなかった。

 

 マスターは微笑んで私を見つめた。
「では、明日からどうぞ、働きにきてください」
 私は驚いて、マスターの顔を見返した。

 

「この質問によどみなく答えられるのは幸運な人です。まっすぐに胸を張り、これが大切だと最初から言い切れる人なんて、本当に一握りです。そうでないからみな悩み、もがき苦しむ。うちの店はね、そんな人々にとっての、人生におけるエアポケットのような場所なのですよ。だからね、ここで働く人の、皆が皆、答えをすでに見つけている必要はないんだ」

 

マスターの目は笑っていた。闇の深い夜、静かな海の水面に映る月のように、絶えざる揺らめきをたたえながら。

 

「仕事は簡単です。すぐに覚えられます。あなたはどうぞ、この問いだけを胸に秘めて働きに来てください」

 

その日の深夜、何気なくつけたテレビの画面に私の目は釘付けになった。
画面いっぱいに映し出されたのは、なんと、「漆黒」にいたあの醜い女だったのだ。

【イラスト tent】
Story 2へ続く わたしのしごと 仕事を愛せない人は自分も愛せない -Story 2-【連載小説】

 

小野美由紀

1985年東京都生まれ。慶應大学文学部仏文学科卒業。Web・雑誌などを中心にコラムニストとして活躍している。14年12月、絵本『ひかりのりゅう』(絵本塾出版)15年2月、単著のデビュー作となる『傷口から人生。~メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』、15年7月、『人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み・食べ・歩く800キロの旅』(光文社新書)を出版。
Twitter:@MiUKi_None 

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